SEP:スピノザの物理理論(前編)

SEPの記事、Spinoza's Physical Theoryを紹介します。『エチカ』の第二部定理13備考のあとに挿入されている短い物体論(いわゆる物体の小論)について、さまざまな解釈をまとめているわかりやすい記事となっています。と、思ってまとめてたんですがけっこう混み合っていてそこそこ難しいです。

紹介と言っていますが、適宜省略をしたり見出しをつけたりしただけでほとんど拙い翻訳に近いものとなっています。とはいえ勝手な付け足しもあるので気になる人はもとの記事にあたるように。ふつうに長いので、しゃらくせえと感じたら★マークのところだけ読むと良いでしょう。これじゃ何もわからんわというくらいの要約を示しました。現バージョンは微妙なので少しずつ修正すると思います。

これの元記事は「結論」も含めると全部で7節あるのですが、ここでは第3節までしか扱いません。残りは後編で(あるいは中編・後編にわけて)紹介する予定です。

Manning, Richard, "Spinoza's Physical Theory", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2016/entries/spinoza-physics/>. 

 

0. 序文

スピノザの物理学は、その内容と合理主義的な方法とにおいて、大部分がデカルト的であると言える。彼もまたデカルトと同様、スコラ学的な自然哲学を否定している(書簡60を見よ)。他方で、スピノザはベーコンの実験主義とも敵対する。また、スピノザデカルトの物理理論*1に特有の困難(ライプニッツに目的論と実体形相を再導入させたような)を認識しているわけではないし、ニュートン万有引力理論(デカルトの渦動説に反して隠れた力=重力を想定する)を予見しているわけでもない。

また、スピノザは正統派のデカルト主義者でもない。彼はデカルトの物理学的見解には様々な欠点があることを認識しており、その見解の基礎となる形而上学的基盤の多くを否定している。これらの不一致を踏まえてスピノザは、物体は実体ではなく、むしろ単一の物体の様態であるとし、物体の個体化に関する独自の見解を展開する。彼はまた、物体の運動と相互作用の根底にある基本原理のためのオルタナティヴな基礎を見つけたに違いない。その結果として得られる物理学的見解は、現代物理学の基本性格とホメオスタシスの理論を先取りしたものである。しかし、スピノザの物理理論は、その明白な機械論的・決定論的性格にもかかわらず目的論を利用しており、個体的物体の本質に重要な説明的役割を与えているように見える。

この記事ではまず、スピノザの物理学の考察にもっとも関連性のあるテキストのソースについて簡潔に論じ、文脈のうちに置く。そして、スピノザの哲学的見解のうち、彼の物理学的理論にもっとも直接的に関係するものを簡潔に要約して提示する。そうして浮かび上がる物理理論の中心的な問題を特定したあとに、より詳細に資料を検討することでそれらの問題点を明らかにしていく。最後に、現代の実験科学や数理科学に対してスピノザの見解を位置づける。

1. 典拠と文脈

スピノザには物理理論をメインのターゲットにしたテクストは一つもなく、彼の物理理論を取り出すためには様々な文脈上にある断片的なテクストを扱う必要があるよ。

デカルトライプニッツは物理学の発展に多大な貢献をした第一級の物理学者であり数学者であったが、スピノザに同じことは言えない。実際、彼の物理理論の歴史的発展への貢献は最小限にとどまっている。これは、彼が提示した物理理論が否定されたり、見落とされたりしたからではなく、スピノザがたんに物理理論をそれとして提示しなかったからである。彼が物理理論について書いたもののほとんどは別の目的のためのものである。それは釈義的であり(デカルトの哲学の解説者として)、形而上学的であり、心理学的であった。

物理的本性に関するスピノザの思想の主な典拠は、

  1. デカルトの哲学原理』(PCP
  2. 『エチカ』の前半部(E2P13S、いわゆる「物体の小論」)
  3.  いくつかの重要な書簡

PCPには、物理学に関するスピノザの著作のなかでもっとも重点的かつ詳細な内容が含まれているが、しかしそれはデカルトの解説という位置づけである。『エチカ』の前半部でも物理理論は提示されているが、それはスピノザが神の本性や、人間精神とその感情の本性と起源を解明するために必要だとみなす限りにおいてでしかない。書簡における物理学的な議論は示唆に富むものではあるが、基本的にはそれは質問や反論に応じてスピノザの見解を説明ないし擁護するか、あるいは同時代人の考え方が彼自身の考えと一致するかどうかを述べるものとなっている。

2. 物体論に関わる限りでの『エチカ』の概要

(紹介者コメント:ここはハチャメチャに難しい。のちの議論のために仕方ないとはいえ、それを論じるために実際に別項が立てられているような事柄*2がギュッと凝縮されているからだ。一応全訳したが誰も読まないと思ったので本文は省略し超訳レベルの要約で代替)

★ 最低限押さえておけばよいポイント:

  • 神に意志はなく、神は(延長属性において)物理的世界そのものである。それゆえ、目的論的な構造は自然そのもののうちにはない【=目的論の否定】。
  • この物理的世界はそれ自体で閉じていて、心的な作用からの影響をまったく受けることがない【=相互作用の否定】。つまり、完全な決定論的な世界である。
  • 物体[body]はスピノザにとって実体(それ自体で存在する)ではなく、様態(他のものに依存する)である。そして様態としての物体は「運動と静止」によって互いに区別される(=個体化される)。人間の身体[body]は非常に複雑な個体的様態として考えられており、それを個体として成り立たせている比率[ratio]*3がある【=個体化の理論】。そして、この比率を維持するように努力している【=コナトゥスの教説】。

以上の構図から生ずる物体に関する解釈の基礎的な問題(これらは互いに絡み合っている)

  • 独立した実体ではないのだとしたら、物体はどのように考えられるべきなのか。
  • 運動と静止は、物体がそれによって個体化されているという主張を意味づけるために、どのように考えられるべきなのだろうか。
  • 慣性の原理とそこから帰結する衝突の法則は、それらが神の不変の意志に基づけられえないならば、どのように説明されるべきなのだろうか。
  • 物体の個体的な努力の本性とは何であり、それはどのようにスピノザ決定論的な延長の力学と調和しうるのだろうか。

3. 自然学的デカルト主義と、形而上学における不一致からの諸帰結

(紹介者コメント:スピノザの自然学を理解するために、まずデカルトからの継承を見つつも、それと同時に形而上学におけるデカルトへの批判を加味することによって、自然学においてどのようにデカルトと異なっているのかを考える、というやり方は最近出版されたPUF版のEthiqueの付録でも採用されていた。そちらもいずれ紹介したい)

★ 以下で試みられている作業:デカルト的な物理理論との表面的な一致がいかに異なる形而上学的基礎によって支えられているのかを確認することによって、スピノザの物理理論を成すと思われる(A)純粋に決定論的な側面と、(B)活動的・力動的な側面を取り出すよ。この二つの側面が両立するのかしないのかという問題は次節以降に持ち越されるよ。

 3.1 一致するところと一致しないところ

表面的な一致点とより深いところでの不一致

スピノザは多くの点でデカルトに同意しているように見える。

  • スピノザは、res extensaラテン語で「延長されたもの」)、つまり延長によって必然的かつ網羅的に考えられるものとしての物体というデカルトの概念に同意している。
  • 彼はデカルト同様、充満主義者[plenist]であり、真空の理解可能性を否定している。
  • スピノザデカルトの運動学的見解、つまり物理現象の経過を記述するdescribe]ために彼が分節化した法則のほぼすべてを受け入れていたことが書簡によってわかっている。
  • 物理的な自然を目的論的なシステムと考えるべきではないことに同意している。
  • 物理理論からは普遍的な原因への訴求を排除すべきであることにも同意している。

しかしスピノザは、物理理論にかかわる形而上学的な事柄の広範囲で、デカルトとまったく違う見解をもっていた(有名なのはいわゆる心身二元論に対する実体一元論)。こうした形而上学的な不一致のいくつかは、二人の哲学者が物理理論について一致しているように見える点もほとんど表面的なものにすぎないことを明らかにする。

たとえば、物理学における「絶対的な原因」への訴求を拒否していたという共通点を考えてみよう。デカルトは、物理学においては目的原因や目的論的な思考は役に立たないと主張したが、それは物理的自然が実際に目的論的ではないからではなく、むしろ我々の有限な悟性が神の意志を理解しえず、それゆえ物理自然に埋め込まれた目的を把握しえないからであった。それと対照的に、スピノザにとって問題は認識論的ではなく形而上学的なものである。世界の原因としての神は意志を持たず、計画を練って事物を創造することはない(E1P32C, P33D, S2)。それゆえ、自然自体がそもそも目的論的なシステムではないのである。

デカルトの哲学原理』にみられる一致と不一致:衝突規則の適用範囲の拡大

スピノザデカルト自然法則と衝突の法則に同意したことも、表面的でしかない一致を示す例となっている。スピノザは『デカルトの哲学原理』(PCP)のなかで、これらの例を詳細に説明している。

この作品はあくまでデカルトの解説として書かれたものなので、そこにスピノザ自身の思考が表現されていると解釈できるかは微妙なところである。にもかかわらず、PCPは、物理学の形而上学的基礎に関して、スピノザデカルトとどこで乖離しているかについて多くの示唆を与える。とりわけ、デカルト的物理学の基本原理のほとんどに対してスピノザが与えている証明は、デカルト自身のものとは大きく異なるか、あるいは補完的なものであることが多く、『エチカ』に表現されているスピノザの成熟した思想の重要な要素を予見しているように思われる。

スピノザデカルトに対して試みた補完の一つに、デカルトの衝突規則の適用範囲を拡大する試みが含まれる。

デカルトの衝突規則の適用範囲は、単一のラインに沿って運動する物体という特殊な場合に限定されている。スピノザデカルトの第三規則に付け加えた系に続く備考のなかで、彼は扱いにくいデカルトの用語である「決定性」(determinatio)は、運動の方向だけでなく、その方向に沿った運動の力をも示すものであると説明している(PCP2P27S)。その後、彼はこの力が平行四辺形の法則によって構成要素に分解できることを示すことによって、デカルトの衝突の法則がいかにして斜めの衝突にまで拡張できるかを証明しようとしている。

スピノザの混乱した試みは失敗したが、このこと自体はとくに重要ではない。むしろ、斜めの衝突というケースは確かに各事物が同一直線上にあるケースよりも一般的であることを考えると、そして、衝突の法則にたしかに求められるのは適用の一般性であることを考えると、重要なのはなぜデカルト自身がより一般的な適用範囲をもつ規則を提供しようとしなかったのか、そして、なぜスピノザがそうしなければならないと感じたのかということである。

それに対するもっともらしい答えは、物理的自然が閉じたシステムを形成している度合いや方法についての両者の見解の違いに存する。デカルトは、速度と大きさの積として考えられる運動量は、すべての物理的な相互作用において保存されていると考えていた。この見解により、精神実体が身体と相互作用し、その運動に影響を与えることは、その方向にのみ影響を与える限り可能であると主張できたのである。しかし、このような影響関係があるとすれば、衝突をカバーするような完全に一般的な物理法則は存在しえないことになる(精神が介入したら方向が変わってしまうので)。デカルトにとって物理的なシステムの正確な状態は、その先行状態に自然法則を加えたものによっては決定できない。この意味で、デカルトは物理的決定論者ではなかった。物理的でない影響が侵入する可能性が完全に一般的な衝突法則を排除するとすれば、デカルトは相互作用を支配する諸原理の適用をもっとも単純な場合においてのみ示すことで十分であると考え、非線形運動に関する法則の定式化を詮索することに価値があるとは思わなかったかもしれない。

相互作用論と保存則の否定

スピノザは、デカルトにおける(心身の)相互作用論[Cartesian interactionism]を断固拒否した。彼にとって、延長的自然は完全に閉じたシステムである。運動量だけでなく、方向も含めた物体の決定はすべて、くだんの物体の本性と組み合わされた他の諸物体の因果的決定によって完全に説明される。

すべての個物、あるいは有限であり定められた存在をもつものは、有限であり定められた存在をもつ他の原因によって存在するように、あるいは結果を産出するように決定されない限り、存在することも結果を産出するように決定されることもできない。そして、この他の原因もまた有限であり定められた存在をもつ……そしてこのように、無限に続く。(E1P28)

異なる属性の様態は互いに他の原因となったり他を説明したりすることができないがゆえに、また神が様態の原因であるのはそれらが様態である属性のもとで他のものによって触発されていると考えられる限りにおいてである(E2P6, E2P9)がゆえに、延長的なもののあらゆる決定は、他の延長的なものの排他的な決定作用から帰結する。このように考えると、スピノザデカルト以上に、完全に一般的に適用されるような一連の衝突法則の必要性を痛感していたはずである。

スピノザ自身は気づいていなかったが、この必要性を満たすためにはデカルトの保存則を否定するしかない。

スピノザがこの法則を明確に疑問視したことはないし、彼がデカルトの衝突法則を受け入れたことは実際にデカルトの保存則を受け入れたことを示唆している。

しかし、デカルトによって提示された形而上学的基礎を受け入れることはできない。

デカルトにとって、実体の存在は、あらゆる瞬間における神の協力的な創造活動に依存しており、そして神の意志は不変であるため、神はつねに延長的な世界全体を、原初にそれを始めたのとまったく同じ運動量でもって再創造している。デカルトの運動法則はすべて、神の意志の不変性という形而上学的な根拠に基づいている。ところが、スピノザの神には意志はなく、世界は創造の産物ではない。だが、スピノザ自身の合理主義へのコミットメントは、運動の保存には何らかの理由があることを要求している。

 3.2 最小様態変化の原理(PLMM)

デカルトにとってじつは重要だった原理

自然法則と衝突規則に対する形而上学的基礎をめぐるこのような乖離は、スピノザによるもう一つの補完において、なにが問題となっているかを理解するうえで重要である。デカルトはクレルスリエに宛てた書簡の中で、衝突に関するすべての規則は「2つの物体が衝突し、それらが両立しえない様態をもっているとき、これらの様態を両立可能なものにするために、それらにある変化が生じなければならないことは間違いないが、この変化はつねに可能な限り最小である、という唯一の原理に依存している」(Descartes 1964-74: V, 185, 太字はMunningによる)ことを明らかにしている。Gabbey(1996)にしたがって、これを「最小様態変化の原理 Principle Least Modal Mutation 」(PLMM)と呼ぼう。その重要性にもかかわらず、デカルトは『哲学原理』において PLMM について言及しておらず、また、クレルスリエに宛てた書簡やその他の箇所でその正当性について言及してもいない。 

デカルトの哲学原理』第二部定理14と定理23

デカルトの哲学原理』(PCP)において、スピノザデカルトが省いた原理を組み込み、デカルトが試みなかった証明を提供している。PCP2P23は次のように述べている。

ある物体の様態が変化を受けるように強制されるとき、その変化はつねに可能な限り最小のものとなる。(PCP2P23)

この証明は、デカルト慣性の法則スピノザが表現したPCP2P14にだけ簡潔に訴えることで成り立っている。

各事物は、それが単純で未分割であり、それ自体において考えられる限りにおいて、それがなしうる限りでつねに同じ状態に固執する。(PCP2P14)

  • しかし、デカルトがなぜPLMMが真であるのかを説明しないのと同様に、スピノザは、なぜ慣性の原理がPLMMを支持するのかを説明していない。
  • さらに、PCP2P14での説明は一見して不十分である。

PCP2P14は、物体がそれ自体において考えられ、単純で分割されていない場合にのみ物体に生ずることについて語っているのに対して、PCP2P23は、他の身体によって強制された変化を被る物体について語っており、それは単純で未分割の物体に限定されるものではない。そして、PCP2P14が他の物体によって触発されると考えられているときに物体に生じていることに関連すると仮定したとしても、それはその後に生じることについての明確な指針を与えはしない。

PCP2P23における最小の全体的な様態的変化は、衝突する諸物体のいずれかが可能な限りその自身の状態に固執することと一致するよりも、くだんの諸物体のそれぞれの側でより大きな変化を伴うかもしれないということは非常にありそうなことのように思われる。もちろん、それらはつねに「できる限り」同じ状態のままであるとは言われている。しかし、この修飾が意味を持つためには、それは明らかに「外部からの影響を受けても、できる限り」という意味でなければならないが、衝突の法則の内容を知るまでは、外部からの影響が物体の慣性的傾向にどのように影響するかについて語る資格はない。しかし、PCP2P23が必要とするのは、まさにこの内容なのである。

『エチカ』における慣性の法則

では、どのように慣性を理解すればPLMMを支持することができるのか。合理主義者の流儀としては、慣性の原理がどのような根拠に基づいているのかを理解することでその健全な理解が得られると期待したくなる。しかし、デカルトの保存則の場合と同様に、スピノザは、神の意志の不変性に慣性を根拠づけるというデカルトの戦略を受け入れることはできない。『エチカ』において提示されている、彼自身の慣性の原理は以下のとおり。

運動している物体は、他の物体によって静止するように決定されるまで運動し、静止している物体もまた、他の物体によって運動するように決定されるまで静止したままである。(E2P13L3C)

ここでも神の意志に訴えるのではなく、因果的合理主義だけによって証明が進められているように見える。

例えば、ある物体Aが静止していると仮定して、他の運動している物体については何も考慮しないとすると、物体Aについては、それが静止していること以外は何も主張できない。その後、いま物体Aが運動しているということが起こったとしたら、それは確かに物体が静止しているという事実に起因するものではないだろう。

他の事物を考慮に入れない限り、ある事物が運動しているあるいは静止しているという概念には、その運動や静止の変化を説明できるものがなにもない。なので、その概念の外にある何かが必要となる。この証明は、『エチカ』のそれ以前の定理や公理を一切引用していない。

しかし、慣性をプリミティヴなものとして捉えるだけでは、つまり、物体は実際には、それがなぜそうするのかという理由がその本性のうちに見いだされないにもかかわらず、その状態を維持する傾向があるということを言うだけでは、満足できないだろう。

このように言うことは、スピノザデカルトの原理をデカルトが理解していた通りに受け入れたのだとみなす一方で、デカルトが提示した根拠を否定し、それに代わるものを何も提示しな かったのだとみなすことにもなる。これは、一般的に合理主義者とみなされているスピノザには似つかわしくない。

さらに、この見方によれば、スピノザはPLMMをわざわざ明確化しようとし、それもただ根拠のない慣性の原理に直接的かつ大雑把に訴えかけることによって正当化しようとしたことになる。だがそれは、デカルトの理解からすれば、その仕事をするには全く不適切であるように見える。しかし、スピノザは明らかに、PLMMが慣性の原理に基づくものであると考えていた。このことは、彼がその原理の本性と根拠の両方について、デカルトとは異なる概念を持っていたことを示唆している。

 3.3 慣性と努力の法則 

スピノザによる語彙の変化

スピノザが『デカルトの哲学原理』のなかでデカルトの運動法則を表現するために使っている語彙の変化は、スピノザの慣性とデカルトの慣性がどう異なるかを示唆している。

円のなかを運動するすべての物体、例えば、スリングに入れた石のように、すべての物体は、接線に沿って移動し続けるように連続的に決定されている。(PCP2P16)

 

円のなかを運動するすべての物体は、それが記述する円の中心から離れて移動するように努力する。(PCP2P17、太字はMunningによる)

スピノザは、PCP2P16の「そうするように連続的に決定されている」を「努力する」に置き換え、ラテン語の"tendere”を”conari"に置き換えているが、後者はデカルトが遠心運動の法則を表現する際に使ったものである。この置換は、おそらく力学的な意味合いのシフトをともなう。Conari は通常、英語で言うところの“exertion”, “effort” “undertaking”, or “impulse”のような意味を持っているが、この通常の意味と一致するようにconariを読むと、PCP2P17は、円運動する物体が外部の原因によって強制されていないときに何をするかを記述しているだけでなく、その活動を運動する物体の努力や衝動に帰属させているのである。この活動的な意味で読めば、PCP2P17における努力概念の呼び出しは、現在進行中の努力、この場合は、ホメオスタシスへの連続的な指向性を示す合図となる。

"conari"が使われてるからってそこまでの帰結を導いていいんか

しかし、こうした語彙の変化からなんらかの推論を導き出すことには、かなり慎重にならなければならない。二つの理由がある。

  1. conariによって代用されているtendereという言葉には、それ自体で試みや企ての意味があり、両者は似たような意味合いを持つ可能性がある。
  2. カーリーが指摘するように、”conari"はすぐれてデカルトの言葉であり(Spinoza 1985, p. 280 n. 43)、デカルトの用法では”conari"が「努力する」物体の側に実際に活動的な何かを含意することが意図されていないことは明らかである。

『哲学原理』第三部56節にてデカルトは、無生物のある運動に従う努力(conari)は、「他の原因によって妨げられない限り実際にその方向に移動するように配置され、その方向に押し込まれることを意味するにすぎない」と述べている。スピノザはPCP3D3において、この「努力する」という語の受動的な意味を忠実に繰り返している。

とはいっても"conari"といえばコナトゥスじゃん

他方、”conari"は、すぐれてスピノザの言葉である「コナトゥス」とも同義であり、これは『エチカ』の中で、自らの存在に固執する努力という個体に内在する力能を表すスピノザの用語である(E3P6)*4

スピノザはこの力を個体の本質として同定し(E3P7)、さらにその増大を、情念=受動と対立する個体の活動力能の増大、すなわち、外的な決定に対立する自己決定の力能の増大として同定している(E3P11)。このことは、スピノザの意図する"conari"が、デカルトにとってその後が意味するたんなる受動的傾向以上の何かを含んでいることを示唆している。PCP2P14で記述された物体の慣性的傾向は、スピノザにとって、デカルトのように神の意志に訴えることによって説明できるものではないことを改めて想起すると、PCP2P17での”tendere”の”conari”への置換は、 スピノザが慣性を物体の能動的な原理に起因するものと考えているという事実を示唆しているのかもしれない。

 スピノザの慣性の原理が活動的な意味での”conari"を含むものとして PCP2P17に基礎を与えるならば、この原理は次のような意味をもつことになる:外部からそうするように決定されない限り物体はその状態を変化させないというだけでなく、外部の原因が物体に作用しているあいだ(例えば、石を円運動において保持しているスリング)でさえも、物体自身の衝動[impulse]は、その外部の原因がない場合と同じように物体が運動するように決定しようと積極的に努力している

そして、スピノザ主義的な慣性をこのように読むと、外部からの決定がない場合にそれがとるであろう状態を維持するように運動する継続的な努力を物体に課すことは、PLMMを根拠づけるのにも適している。

相互作用の対称性を考えると、相互作用に参加している物体のそれぞれは、他の物体によって変化するように外部的に決定されながらも、それがなしうる限り変化に抵抗するように努力するだろう。もっともらしいことに、それならば、相互作用する物体の対立の解決から生じる状態の変化の総和は、可能な限り最小の総和になるだろう。このことは、『デカルトの哲学原理』においても、スピノザが、デカルト的な物理学の基礎にある問題点——物体を延長と同一視するという過度に受動的なデカルト的解釈に由来する――を補強しようとしていることを、少なくとも暫定的に示唆しているのである。

 3.4 努力と目的論

コナトゥスの教説による目的論的説明の導入

スピノザがこのような慣性力学のより活動的な読み方をデカルト哲学に押し付けようと意図していたのかどうかという問題とは別に、スピノザは明らかに、個体的な様態が努力するコナトゥスを、彼が『エチカ』のなかで提示した成熟した哲学の中心に据えている。E3P6におけるコナトゥスの教説:

各事物は、それ自身の力によって可能な限り、それ自身の存在のうちに固執するように努力する。(E3P6)

しかしこの箇所は先行研究においてきわめて多くの解釈上のパズルの主題となってきた。このパズルの主な焦点は、E3P6がスピノザの自然哲学における目的論的な要素をどの程度表しているかということである。

コナトゥスはスピノザの人間的心理学の中心となるものであり、それによれば、人間は自分の力能を増大させるものを得ようと努力し、自分の力能を減少させるものを避けようとする。スピノザがコナトゥス原理を採用するのは、「xはAの力を増大させる」という形の文章から「AはAがなしうる限りxを行う」という形の文章への推論を可能にするためである;これは純粋に説明的な目的論であり、達成されるべき状態——力能の増大——を事物の活動が目指している目的として、またしたがって、行為の説明的基礎として扱っている

コナトゥスの教説を物理理論から分離したくなる理由

 コナトゥス原理から目的論を読み取ったり、目的論とコナトゥス原理の両方ともがスピノザの物理理論とは根本的に無関係であると考える理由:

  • 『エチカ』の第三部でコナトゥス原理が最初に明示的に登場するのは、スピノザが延長的自然とその様態の基本的な力学についての説明を提示してからずっと後のことであり、しかも両者の関わりを理解するのが非常に困難な仕方においてである。
  • E1P28は、いかなる個物であっても、それが先行する有限な原因によって決定されない限り、存在しあるいは結果を産出するように決定されることはないとしている。E2P9でE1P28が使われていることは次のことを示唆する*5。すなわち、スピノザはE1P28によって、様態の存在と決定についての必要条件だけではなく、有限様態が存在するようになり、特定の結果をもつように決定される排他的な手段をも明確にしようとしているのである。このことは、物体の活動をそれ自体の権利において許容する余地を許さないように見えるし、運動している物体そのものの活動的な努力が物体の運動に寄与する余地も許さないように見える。
  • さらに、スピノザは自然が目的論的なシステムであることを明示的に否定しているし、目的原因による説明/目的論的説明は「自然をまったくひっくり返す」と主張している。なぜなら、真に原因であるものを結果とみなし、逆に、結果であるものを原因とみなすからである」(E1App)。
結局のところ問題はなんなんだ

このように考えると、物理理論の基礎としての延長の形而上学の立場から見た問題とは、存在する所与の様態の特殊な配置が、外部の様態的原因の作用から帰結する決定になんらかの寄与を果たすのはなぜなのかを説明することである。

物体の因果的力はすべてを外的な原因の寄与に負っているのであって、物体そのものの内的な本性には何も負っていない、というようにE1P28を読むのは軽率であろう。スピノザはE2P13SA1において「ある物体が他の物体によって触発されるすべての様態は、触発される物体の本性と同時に触発する物体の本性の両方から帰結する。それゆえ、異なる物体は同じ物体から異なる仕方で動かされるだろう」(これは、E2P17からP41において提示されている身体的想像力、精神的表象、そして第一種認識についてのスピノザの説明において重要なポイントである)。なので、触発を受ける物体の本性は、それが外的に触発される仕方に違いをもたらしているのである。

物体の本性が、外的な影響が物体を決定する仕方に貢献する理由を説明するものは何だろうか。前のセクションで見たように、PLMM、ひいてはすべての衝突法則の意味を理解するためには、この質問に対する何らかの答えが必要である。コナトゥスの目的論的な読み方と、スピノザ的な慣性の活動的な読み方に共通する概念である、それ自身の力能で能動的に努力することが物体の本性に存するという考え方は、その助けになるように思われるだろう。しかし、それははたしてスピノザ的であろうか。われわれは、個体的物体の本性に関するスピノザの考え方を、より精査する必要がある。

*1:原題が"Physical Theory"となっているのでそのまま「物理理論」としているが、扱われている内容はむしろ、ホッブズDe Corporeにならって「物体論」とでも呼びたくなるものである。また、この"physical"という語彙には、§3をみると分かるとおり、metaphysical(形而上学)に対するphysical(自然学)のニュアンスもあると思う。いずれにせよ、現代の物理学という言葉で一般にイメージされることからは少し開きがあることを押さえておく必要がある。

*2:たとえば、Baruch Spinoza(概論)やSpinoza’s Theory of Attributes(属性論)といったエントリーでもっと詳しい説明が見られる。

*3:私としてはこの"ratio"を比率とは訳したくないが、簡略にするためにそうしておく。この用語についての議論はこのエントリーの主に§5でなされている。

*4:原文にはE2P6とあったがこれはE3P6の誤りだろう。

*5:第二部定理9証明:「現実に存在する個物の観念は、思惟の個別的な様態であって、他の諸様態とは区別されるものである(E2P8CとSより)。したがってそれは(E2P6より)神が思惟するものである限りにおいてのみ神を原因とするが、しかし(E1P28より)神が絶対的に思惟するものである限りにおいてではなく、神が他の思惟の様態に変状したと見られる限りにおいてである(…)」(太字は引用者による)。Munningはまったく説明を付していないが、これはかなりトリッキーな参照のように思える。